こんにちは
メリッサです!
晴一さんのnoteに、「どこで覚えたんな」というタイトルの記事がある。
簡単に、本当に簡単に要約すると、「言葉には力があり、その言葉の力をもろに受けているのは自分だ」という内容だ。
これは私がクリスチャンになってからずっと教わっている教えに通じている。聖書には箴言という巻があり、その18章21節に「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」と書かれている。
私自身にあてはめて考えてみたとき、聖書の教えはもちろん、晴一さんが書いていることも真実だと思う。
私には褒められた記憶がほとんどない。
人生の大半を、否定される言葉の中で過ごしてきた。
今なら発達障害の典型的な症状と分かるのだが、成績も文系科目は良いのに理系科目になると目も当てられない有様だった。余りにも差があるので、もちろん親や先生には手を抜いているように見えたのだろう。家でも学校でも塾でも怒られた。
「なぜできないの」
そう言われ続けた私は、確かにその言葉を自分にも言うようになっていた。
「私はできないんだ。なんで普通にできないの」
得手不得手の差が激しすぎるから、5教科で勝負する中学受験や高校受験なんて、到底無理な話だった。
不合格になったことで、私は私という存在を否定されたように感じた。
でも、そんな私にも、高校時代には、数少ない褒められた記憶がある。
両親が別居することになり、転校した高校で3年生になった時だ。あれは古文の授業だった。教科書を読むように当てられて、読んだ。ただそれだけ。でも、古文担当の先生は言ってくれた。
「素晴らしいですね」
その一言があったから、私は今でも読むことには自信が持てる。教会で聖書箇所を読ませていただくお手伝いも、自信を持ってさせていただいている。
「あなたは聖書を読む賜物をいただいている」
私を救いへと導いて下さった先輩の言葉だ。
この言葉にも自信をもらった。私は去年子宮腺筋症の手術で1ヶ月ほど教会をお休みさせていただいた。その間は違う人が聖書箇所を読んだが、やはり違ったのだそうだ。
私はまだ霊的に鈍くて、そういうことはわからない。しかし、先輩がそう言うならそうなんだろうと思う。
それともう一つ。
私はこうして書くことが好きだ。小さい頃はよく物語を作って遊んでいた。小学生から高校にかけて、作文や詩、小論文で選ばれたことがあったが、それはマイナスの言葉たちの中に埋もれてしまっていた。
息を吹き返したのは、新聞に投稿を載せたいと電話をくれた人の言葉だ。
「とてもいい内容でした」
掲載された投稿を牧師に見せたとき、こう言ってくださった。
「ものを書く賜物を神様からいただいている」
先の先輩も。
「あなたには文才がある」
単純だけれど、私はこの言葉たちで夢を取り戻した。私が思うより、脳は単純なんじゃないかと思う。自分であれ人であれ、言われたことを信じてしまう単純さがあるのではないか。
小さい頃の私は「できない」と言われ続け、そう信じた。
今は、少ないけれど「できる」と言っていただけることがある。だからそう思って、書くことと読むことは自信を持ってできるようになった。
言葉には力がある。
「人生の半分はポルノでできています」に書いた通り、事実私はポルノグラフィティの歌に、晴一が生み出す言葉たちに支えられて生きてきた。
最近になって大ハマりしたヒロアカだって、「一言の重み」にあるように、第一話であの印象的な言葉に出会ったからだ。
言葉を大切に使いたい。人も自分も否定しないように。
自分にはできるだけ「いい言葉」を聞かせてあげたい。
外から聞こえてくる言葉がそうではないことが多くても、その上から「いいこと」を言ってあげたい。
私はそう願っている。